短歌

目次

〈響合と近現代の秀歌・秀句〉

〈自撰短歌〉

〈響合と近現代の秀歌・秀句〉

【響合】様々な事象から独立した複数の素材を取り出し、素材の意味や形質を変容させることなく、一つの作品の中に要素として取り込み、要素同士の響き合いにより新たな表現を生みだす手法
【疎句】響合している複数の要素の距離は遠く直接結びつかないが、遠く深いところで結びつき要素に一体感がある。読者の想像が深まる手法。
【共時】筆者の造語である。アララギ派的なあるがままの写生のように見せながら、実際は同時進行していたとは限らない事象の響合。ありえる現実感を保つ要素の距離。
【二物衝撃】疎句・共時よりも更に要素の距離は遠く、意味の上ではほぼ無縁と云える。衝撃的な意外性が面白さを生む。共時の「あり得る現実感」に対し、実景・実体験のない「ありえない現実感」と云える。

 響合は、古代の慣用的なものから、調和を重んじ、縁ある言葉を用いた中世、更に素材の縁は遠くなる傾向にありました。そして近代、縁を見つけにくい素材の響合、つまり、共時へと変貌を遂げるのです。上記は何れも近代的な響合、つまり、慣用的響合から解き放たれた、素材の距離が遠い詩歌であります。

斎藤茂吉の歌一首に例を取ってみましょう。

のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳ねの母は死にたまふなり

 母の死と燕との響合が見られるが、この二つの要素にはいかなる縁があるのでしょうか。
 母親の臨終の場に、本当に梁に燕が二羽いたのでしょうか。そのような検証はあまり意味がないように思われます。母の死と梁にいる燕という二つの事象が同時であろうと異時であろうと、はたまた、燕など何処にもいなかったとしても構わないのです。
 響合する要素が、あたかも同時進行の中で起きているように描くことを私は共時と呼んでいます。彼にとって共時は写生に反するありえない情景、読者に描けない情景でなければそれでよいのです。実相、つまり、詩的現実感として納まっていることに意味があるのです。
 母親の死と梁にいた燕という二つの事象を意味により結びつけようと試みても、そうした意味づけは歌の中に古典的調和を求め安堵を得ようとする、中世的和歌の名残に過ぎません。むしろ、茂吉は余計な意味の生じない無縁な二つの事象を選び響き合せたのです。茂吉は悲しみにくれる自らの姿を、心情とは無縁の二羽の燕で覆い、心情を暗示に止めたのです。この暗示の成功により、悲しみを赤裸々に表現するよりも遥かに深い実相観入に到達しているのです。恐らく、悲しみに暮れる自らの姿を露骨に詠めば、これら挽歌はいささか芝居がかった印象を残したかもしれません。ここに、近代短歌は共時を発見し、響合による表現は大きな転換期を迎えました。

降る雪や明治は遠くなりにけり 草田男

昭和六年、中村草田男三十一歳の作。彼が二十年ぶりに母校を訪問した雪の日に詠んだ句だそうです。 「雪」と「明治」は無縁ですが、母校を訪れ二十年前の思い出に浸るとき、降る雪がしんみりと感傷 を誘ったのでしょう。遠いところで縁が繋がる疎句でなのです。

夢殿やクラゲの脚をくしけづる 夜景

それに対し、小津夜景の句は二つの素材に縁はほとんど見えません。暗喩にすらなっていないのではないでしょうか。彼女は自身で、最初に夢殿という言葉を使いたかったと語っています。従って、クラゲも櫛づけるも夢殿に合わせて探した言葉なのです。全くの無縁であればこそ衝撃は大きい。この実景・実体験のない世界は、先に述べた「詩的現実感」という近代短歌俳句の約束をも逸脱しており、「ありえない現実感」といえます。響合の要素の縁が遠ければ遠いほど読者の想像力は膨らみます。響合の要素は無縁であっても、余計な意味が生じないよう、調べを崩さないよう、作者は要素を厳選しているのです。そこに、現代俳句の響合があります。詳しくは『美の位相』(第二章詩歌と響合)をご参照戴ければ幸いです。

〈自撰短歌〉

〈希望の季節-更生施設女子寮にて-〉

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主な投稿先

朝日歌壇
NHK全国短歌大会詠題自由題近藤芳美賞